凡愚モン日記

オッサンの独り言ブログ。何にでも興味を持ち、一つの事に拘らない(長続きしない)薄ーく・広ーい内容が自慢のブログ!

老後をボ~ッと想像してみた!

 仕事が早く切り上がったので、久し振りに本屋で暇つぶし。ん~ん、50歳からの○○的なタイトルの本が結構ありました。50歳と言えば、あー、もう10年で現役引退、15年で年金生活者ですか・・・・トホホですな。15年前は35歳なわけで、あの頃からの時間とこれからの残された時間が同じなんですよ。そんな算数的なコト考えても仕方ないので、一冊手に取って読んでみる。世の中には自分の人生に自信を持っているヒトがいるんだなぁと言うのが素直な感想。曰く、50代はこうすべし的な内容が多かったように思います。大きなお世話だとも思いました。まぁそういう本の中にも「ん~」と唸ってしまう本もあり、1冊買って先ほど読んでしまいました。

 内容は「禅」的な生活を奨励するものです。最近、般若心教だの禅だのエラくスピリチュアルな世界に入りつつありますが、「禅」は日常的な事、食事や睡眠、生活一般を修行の場と捉え、実践する哲学ということらしいのです。座禅組むだけではないようです(またの機会に鈴木大拙は読みます!)。自分自身の生活を振り返ってみても、食事は時間に追われ、しかも誰かが作ってくれたものを食べ、二日前に何を食べたのか記憶にもなく、単なるエネルギーと栄養を補給しているだけの面が強いですし、睡眠についても疲れを取るために倒れるように寝床に入っています。現代人であれば多かれ少なかれそういうモンでしょう。

 しかし、この禅的生活では、朝は少し早く起きて掃除をする。履物は揃える。呼吸を整える。など「それがどうしたっちゅうねん」(何故か関西弁)という内容なんです。誰でも1~3回くらいは可能な簡単なものです。簡単なことを兎に角毎日続ける、これが「言うは易し行うは難し」で、まさに修行になるんでしょうな。今は仕事中心の生活ですが、例えば自分が年金生活者になり、時間はあるがお金がない生活を余儀なくされるとしたら、禅的生活は最強のように思いました。

 生活者として日常の些事に禅的に取り組むとは、毎日決まった時間に起床し、掃除、食事(一汁三菜ですよ)の用意、洗濯、また食事の用意、これを淡々とこなしていくことなんでしょうね。そのためには、そういう日常瑣末な事に前向きに取り組める精神構造を備える必要があります。ではどうすれば前向きに取り組める精神構造が備わるのでしょうか。個人的には自力展開は難しいように思います。そこで、これを強制的に禅的精神構造に変えることが必要ではないか、そう思いました。

 具体的にどうするか、60歳定年から65歳年金支給まで禅寺で修行させるしかありません。こう書くと強烈な反論があると思いますが、多分、これをやれば会社での老害がなくなり若い社員にチャンスが回ってきます。また、当の高齢者も成人病だの生活習慣病だのはこの修行中に完治するので、医療費も大幅に削減でき、健康で長生きできます。しかも世俗と離れ5年間も自分自身と向き合う訳ですから、もうほぼ哲学者です。きっと新しい哲学や思想、文学が花開くことでしょう。日本は民主国家ですから強制的にこういう制度は無理ですから、こういう法律による雇用延長(会社的には迷惑この上もない)にも応じず、禅寺行き老人を増やすには、税制上のインセンティブでも働かせて欲しいものです。10年後の自分は間違いなく禅寺へGo!ですけどね。